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2011年11月19日土曜日

サハリン紀行ー7

コルサーコフにはバスで行ったが、途中の景色はあまり変わらない。バスの方が、森の中をかき分けた道を通過したということか。コルサーコフはサハリンでも南部だから
やわらかく暖かい陽射しで10月にしては温暖。食事も野菜や果物が多く使われ美味しかった。海岸風景も開けていて清々する光景が広がる。

サハリン紀行ー6

サハリンは地図で見るとわかるが、南北縦に細長い。従って北の方はかなり気候が厳しいのだ。10月初旬でも雪が降り始めている。写真はユージノサハリンスクから陸路12時間かけて終点アレクサンドロフスクにたどり着き、朝食にありついた簡易食堂。”白樺”とロシア語で書かれた看板が無造作につっ立っている。中は簡素だが、衛生的なただずまい。昔に比べれば随分清潔になったもんだ。ふつうこの手の安食堂だと薄暗くて、ゾローとした感じだが、ここは思いっきり明るくきちんとしている。石油掘削でここを訪れる外国人の好みを学習したのだな。概してロシア人は衛生には無関心。昔から主婦は意外とだらしないのが多いのだが。
食事はふつうのロシア人が食べるマーンナヤ・カーシャ(ロシア風お粥)とバターと白パン、紅茶のそっけないもの。今回サハリンを訪れておいしい黒パンには一度も出会わなかったのは残念。私が好きなのはオルロフスキー黒パンとドクトルスカヤ・カルバサーだ。

サハリン紀行ー5

サハリン北部アレクサンドロフスクのドウエ海岸の番小屋で楽しい乾杯風景。
もちろん酒はサハリンで生産されているウオッカだ。研究者が用意した黒パンと自家菜園のきゅうり、ハムのブッチェルブロード(オープンサンドイッチ)。
豪華な食事でなくともこういう素朴なもてなしを精いっぱいするのがロシア人気質だ。
私は何十年もこういうロシア人気質に惚れ込んでスラビストを続けている。

2011年11月18日金曜日

サハリン紀行ー4

サハリンーチエホフ博物館の流刑囚の部屋の再現室ー当時の部屋をそのまま忠実に再現されている。粗末な木のベッド、その他画面では見えないが5キロ以上ある足枷など細部にわたり再現されている。

2011年11月13日日曜日

サハリン紀行ー3

サハリンに住むロシア人の世代間格差は想像を絶する。何についての世代間かと言うと知見と教養の差であろうか。1991年を境にして断絶があるようだ。即ち40代の人々の教養度と20代のそれとは格段に断絶があるようだ。20代の連中はサハリンの天然ガス開発のさなかに生まれた連中でアメリカの新自由主義に毒された連中だ。教養もないし、世界認識の方法論が確立されていないから、外部の金銭的価値でものを判断しがちだ。それでよく街の広場の中央にレーニンがあっても違和感を感じないだろうね。不思議だ。子供のころから見慣れているから、違和感もない代わりに特別の感興もわかないのだろうね。戦争と平和に出てくる有名な将軍の名前の付いた高級レストランー確かバグラチオンだったか、そのレストランの若いボーイでも自分が勤務しているそのレストランの名前の由来がわからないのだから呆れる。ただ時間給何ルーブルもらえるかのほうがずっと興味があるのだろう。まさにアメリカの新自由主義が遠く離れたこの極東の地で跋扈しているのだ。小学校の校長30代後半の女性にコロンタイについて論じようとしても彼女は論ずることができないのだ。何故?知らないからだ。モスクワから遠く離れているからそんな知識にありつけないという始末。いい加減にしろ。知識を得るのに空間的格差はないはずだ。これでは女性の問題と初等教育を論じたくともロシアの女性教育に影響を与えたコロンタイの知らないのではお話にならない。がっかりした。